Everything But Nirvana: The Authentic Leadership Journey of a Japanese Buddhist, Shoukei MATSUMOTO

僧侶と学ぶ公共哲学 / Studying Public Philosophy with Buddhist Priests

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昨日は未来の住職塾公開講座@大阪・應典院。
今回は應典院さんのご好意で、会場を無償提供いただけることになり、とても助かりました。
東京に引き続き同内容を二回目ということで、私を含めて講師陣も皆少しリラックスしており、東京よりも余裕をもって進めることができたと思います。
ご参加くださった皆様、ありがとうございました。

終了後は会場でそのままミニ交流会。
缶ビールを片手に、みんなでがやがやと語り合います。何もしなくても毎回すごく盛り上がりますので、きっと皆さん、これを楽しみにきている部分もあるんじゃないかと思います。


そして、今日は縁あって公共哲学をテーマとした僧侶の勉強会に参加しました。
事前にテキストを読んでいきましたが、善・正義・公・私・社会など、ふだんの会話で何気なく使う概念をあらためて深く考えるよい機会になりました。

以下、議論した事柄をメモ。

「共約可能な共約不可能性」、つまり人間一人ひとり皆違うよねというある種の絶望を分かち合うところに希望が生まれる。

公共哲学は一歩間違えると公共性とはまったく反対の方向へ人を向かわせるベクトルもあるのではないか。「公」と「私」の両者を包含しながら間にあるのが「社会」であり、それは「生活世界の植民地化」するもの、私的領域を公的な管理に収めるもの、つまり現代ではPolitical Economy=Capitalism(資本主義)であるということ。合理性に基づいてコンセンサスを作りながら価値観の画一化も図ろうとするのが公共哲学の領域で言われる「対話」的な議論のあり方だとするならば、それはある意味で善良な思想を装いながら、複雑化した資本主義をさらに巧妙に押し進めるものになってしまうのではないか?


資本主義がグローバル社会を席巻する(画一化された社会)中で、宗教は公共の領域でどのようなはたらきをすべきなのか。NPOなどと同列に、公(政府)がカバーできない弱者に対して手を差し伸べるのもひとつ重要な役割だが、それだけでいいのか。それを無邪気に取り組むだけでは、結果として資本主義(世界を均質化しようとする力)の片棒をかついでいるに過ぎないのではないか。

そうは言っても、宗教「教団」というものに目を向けた時、そもそもその組織自体が所属する者を画一化しようとする傾向がある。あらゆる事象を「教理」に還元して解釈しようとするドグマ主義もそのひとつだし、あるいは、お寺で自然に手を合わせる人の言語化できない祈りの気持ちを、画一化された教理に還元して語ろうとしてしまうこともある。

などなど、公共哲学それ自体が「世界を均質化しようとする力」に組み込まれていないか注意深く見守りながら付き合う必要があることを知りました。


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Today I attended a Study session on Public Philosophy with Buddhist priests. In the global capitalism, what kind of role should Buddhist priests play? We should not be dogmatic but flexible and open to oppose the power which makes the world homogenized.
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Shoukei MATSUMOTO
>>Profile Born in 1979 in Hokkaido, after the graduation from The University of Tokyo, Keisuke Matsumoto has worked in Komyoji Temple Tokyo for 7 years. As a head of Young Buddhist Association of Komyoji Temple, he launched new initiatives like Temple Cafe Project and Twilight Music Festival. After studying MBA in India, he is teaching "Temple Management" in Japan.